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悪くない取引

作者: エチカ
last update 公開日: 2026-11-03 19:45:48

「おっと……」

 大きな手で簡単に右手を取られ、麗は男を恐る恐る見上げる。

 男らしい彫りの深い顔立ちなのに、色白のせいか中性的な美しい顔がそこにはあった。

 あんな恐ろしい場所に居る人間は、もっと怖くて醜いだろうと思っていたのに――。

 麗は驚き過ぎて、言葉も出ず、ただ男の目を見つめる。

 長身で鍛えられた体を仕立ての良いスーツに包んで、見惚れるほどの圧倒的な容姿を持った男が自分の腕を掴んでこちらを見ていた。

「体調は悪くなさそうだな」

 抑揚なくそう問いかけた男に、麗は警戒心をむき出しにして声を荒げた。

「触らないでっ!」

 掴まれた手を振り払おうとしたが、男の握力には敵わない。

「落ち着け」

「いやっ! 離してっ!」

 麗が力任せに男の腕を振り払おうとした時、部屋の扉がノックされた。

「社長……物音がしましたが……」

 ここへ来る車内で話していたもう一人の男の声。

 彼は返事も待たずに入って来て、その後ろには黒服を着たガタイの良い男が二人、ものも言わずに立っている。

「何でもない。下がれ」

「失礼いたしました」

 部下らしき男達が下がるのを見届けて、彼はこちらに向き直り静かに口を開いた。

「分かった、離すから暴れないと約束してくれ」

 落ち着いた声でそう言われて、麗は返事もせずに周りを盗み見る。

 部屋の扉は男の後方にあり、全力で走っても男を振り切って部屋を出るのは不可能だろう。

 背後に窓があるが、どう見ても一階じゃない。

 どうしよう。

 どうしたら……。

 一か八か、飛び出してみるしか――

「逃げて勝算はあるのか?」

 男にそう言われて、もう一度男の目を見る。

 現実的にここから逃げ出した所で、この貧弱な体では、途中で見つかって捕獲されるか、最悪そのまま死ぬ運命。

 無力さが怒りを鎮火させ、振りかざした手の力は情けなく抜けていく。

 ゆっくりと握りしめられていた手が離され、傍にあったソファに座るよう促された。

 男は向かいに座り、長い脚を組み、両手を膝の上に重ねて、静かにこちらを見つめている。

「……あったらここにはもういないわ」

 麗の声には自嘲が混じっていた。

「私はさっき離婚されたばかりで、千日病にもかかっている。皮膚は少しずつ爛れていくし、寿命も短いわ」

 麗は平然を装っていたが、指先をぎゅっと握りしめ、声もわずかに震えていた。

「知っている」

 彼のその言葉に、麗は一瞬呆けたが、すぐに眉をひそめた。

「……知っている? それなのに十億も出して私を買ったの? 何が目的なの?」

 男は答えず、テーブルに置かれたグラスを一つ取って、彼女の方向へ押しやった。

 中には透明な液体が入っていて、匂いは一切しない。

「飲め」

「これは何?」

「君の体に効くものだ」

 麗はそのグラスを見つめたまま、動かなかった。

 麗のためらいを見て取ると、彼は無理強いせず、手を引っ込める。

「では、今は飲まなくていい。だが、君はもう発症している。どうせ死ぬしかないのなら、一度賭けてみてはどうだ?」

「賭ける? 私を買った貴方に?」

 麗はなけなしの気力で、挑戦的な視線を男に向けた。

「あぁ、そうだ。何しろ、今の君の命は、俺のものだ」

 麗はうつむいてグラスを見つめ、しばらく黙っていたが、また顔を上げて彼をまっすぐ見た。

「……貴方は私に何を求めているの?」

「賢いな」

 彼は笑わず、短くそう答える。

 そして、さっき部屋に来た部下を呼びつけ書類を一通持って来るよう命じ、それを差し出した。

「俺の妻になって欲しいんだ」

 テーブルの上に置かれたその書類は婚姻届だった。

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